江戸の中期、ちもとは西陣の千本通りにて産声をあげました。 現在の地には明治初期に移転。その際に原点である「千本通」から 「ちもと」(千茂登)と名付けました。 謡曲「嵐山」の「み吉野の千本のはなの種植えて」、 さらには歌舞伎「義経千本桜」にあやかって 桜をちもとのモチーフにさせて頂いており、 建物の随所に桜が施されております。